幼馴染の話

私には幼馴染がいる。

所謂インキャに分類される自分とは正反対な母親は、非常に色々な人間との関わりがある人間であるため、生まれてから中学に入るまでは幼馴染とべったりで過ごしてきた。今は疎遠になってしまったが。

よく遊んでいたのは年上の男1人、同い年の男が3人、年下の男が2人である。

今回はその中から、年上の男のエピソードについて書いていくことにする。

年上の男(以下、T)は、ひとつ上の好奇心が旺盛で、かなりマイペースな男であった。弟が一人いたが、あまり面倒見が良いかと問われると、そうでもないと答えるくらいにはマイペースな方だと思う。私の前で弟の面倒を見ていた記憶があまりない。

私はTと同じ水泳教室に通っていた。

水泳教室は、家から車で約20分の山の上にあった。主に私の母親が送り迎えをしていたが、たまにTの父親か私の父親が車を出す事もあった。

Tが小学1年、私が幼稚園の年長だった頃、その日は普段通りにTの家に遊びに行き、水泳教室に行く直前までTの家の近くの公園で遊んでいた。

しかし、無邪気な我々は楽しく遊びすぎた。こうなれば「もっと遊びたい」と思うのは必然だ。当然、我々も例外なく「まだ遊びたい」と思ったのである。

しかし、休むことは私の母親もTの母親も許さなかった。私の母親が迎えにくる前に、家を出る前に告げていた公園から移動しようか、などとお互いに言い出すことはなかった。母は強し、とはこういうことを示すのだろう。

私はTにそろそろ帰って支度しよう、と言った。しかし、何を思ったのかTは「俺は歩いていくぞ」と言い出したのである。

成人した今でこそ、遠いし面倒臭いが行けなくはないという認識であるが、当時の私は幼稚園の年長だ。週に2、3度、数年間通っていればバカでも覚えるような簡単な道のりであったが、途方も無いような距離に感じたのだ。それに、子供の足で間に合うような場所でも無い。

(自分で言うのもどうかと思うが)賢かった私は「やめようよ」と説得を試みた。

しかし、Tの決意は固かった。

「俺は一人でも行くぞ」

人がダメだ、無理だと言うと、やってみせようとか、見返そうという、未だに理解できない男性の心理が幼いながらも働いていたのだと思う。こういうところで男女というものはわかりあえないのだろうなとぼんやり思うが、その話は今は置いておくことにする。要するに、私の「やめよう」は、さらに彼に意地を張らせるような言葉だった。

しかし、利発な幼稚園児の私でもこの言葉の魔法には敵わなかったのだ。

「俺は1年生だからいける」

幼稚園と小学校という壁は、一歳差でもかなり高く感じるものだ。

園児にとって小学校とは未知の世界である。

しょうもないことで喧嘩したり、遊び倒したりしている私と、小学校でなんだか難しそうなことを勉強しているTとは雲泥の差がある…と、当時の私は自分の無力さを嘆いた。

同時に「そうか、小学校に行くと一人でプールに行けるのか」と、急にTが逞しくみえたのだった。

しかし、責任感が強い子どもであった私は、一人で行かせては行けないと思い、「わかった、一緒に行く」と付き添っていくという旨を伝えた。夫から脱サラして独立するという意思を告げられた妻が「この人に着いていくと決めたのだから」と覚悟を決める時の気持ちとよく似ている。

こうして10にも満たない子供2人の冒険が始まった。

まず、Tは私の分のプールバッグと、彼の分のプールバッグとゲームボーイを取りに行った。あくまでも目的地は水泳教室であるため、そのための道具を取りに行ったのである。Tは当時ポケモンにハマっていたため、どこに行くにもゲームボーイを持ち出していた。隙があればゲームをしていた。おそらく彼は、頭の中で小学校で習った算数をフル活用した結果、時間より前に着くという結論を出したのだろう。着替えて準備体操をするまでの間にポケモンを育てる予定もしっかりと組み立てていたのだった。多分。知らんけど。

そうして、Tの家から出発した。道程はふた通りあった。私の母親は坂を登りきり、大きな道路に出て一直線で向かっていた。しかし彼の父や私の父は、下道を通ってから坂を登り、大通りに出ていたのである。どちらの道のりでもいけるが、彼は尊敬する父親の意思に従い、下道を通ることに決めた。この冒険の隊長はTであるため、私もそれにならって後ろを歩いていった。

途中の下道には公園があった。Tは「まだ時間があるから遊ぼう」と誘ってきた。私は遊び足りなかったので快諾した。彼の家からこの下道の公園に辿り着くまでの間で全面的に信頼を寄せていた私は、彼が間に合うというのなら時間通りに着くのだろうと考え、ブランコで遊ぶことにした。

思う存分遊んでいたら、想定していたより時間が経っていたようで、Tは「まずい!早く行くぞ!」と公園をでて駆けて行った。私は慌てて彼の後を追った。

一生懸命に坂を登り、大通りに出た。車通りが多く、轢かれるのではないかと足が竦みそうになっていたが、Tがさっさと信号を渡っていくのでためらっている暇はなかった。こんなところで置いていかれたらまずいのだ。

そうして急ぎ足でTのあとを歩いていたが、小さい子どもというものは隙さえあれば命を自ら落としにいく生き物である。頼もしい小学校1年生であるとはいえ、Tも例外ではなかった。

縁石の上を歩き始めたのである。ビビリの私は「これはマズイのでは?」と肝を冷やしつつ、「この上を線を踏まないで歩かないといけないんだ」と言われたので従った。しかし、私の短い足の歩幅と縁石の線が微妙に合わず、線を踏みかけた私はバランスを崩して車道へ転んだ。

幸いにも車道外側線からははみ出なかったため、轢かれてジ・エンドとはならなかったが、膝や肘に擦り傷をこさえてしまった。

痛みと車に轢かれるかもという恐怖から私は泣きたくなったが、我慢した。

Tは私の傷を見て「大変だ。絆創膏が必要だ」と言った。幸いにも、すぐそばに薬局があることを知っていた我々は、絆創膏を貰うために薬局へと足を運んだ。

負傷者1名(私)を連れてTは薬局に入った。レジにいたのは、髪の毛が寂しいおっちゃんだった。Tは私が怪我をしたから絆創膏をくれとおっちゃんに頼んだ。

おっちゃんは「お金はある?」と問いかけてきた。「ない」と答えた。我々が持っているのは、水着とタオルとゲームボーイのみである。

おっちゃんは「お金がないと絆創膏は渡せないんだ、パパかママを呼んできてくれるかな?」と、社会の基本的な仕組みを困り顔で教えてくれた。

泳いだ後の肉まんやアイスは、お金がないと食べることができない。怪我をしたら絆創膏を貼ってもらうということが当たり前であったが、絆創膏にはお金がかかるのだと衝撃を受けた。我々は諦めて外に出た。練習開始時刻はとっくに過ぎていた。

転んだ当時からしばらくは「1枚くらいくれればいいのに」と多少の憤りを感じていたものだが、社会に出て働いてみるとおっちゃんのとった行動は至極真っ当であると思う。何かを得るためには、それなりの対価が求められるのだ。要するに、この世はカネだ。

おっちゃんも助けたいという意思はあったのだ。何度もごめんね、痛いよね、ごめんねと謝ってきた。しかし、小さい子どもの買い物には大抵親がいるものだから、おっちゃんも近くに親がいると思ったのだろう。

しかし我々は冒険の真っ只中であるため、近くに親がいるという状況ではなかった。

人の善意だけで飯が食えるのであれば、誰も苦労しない。人の善意に漬け込んで得をしよう、などという愚かな思考は早急に捨てることをお勧めする。何も出さずに得だけしたいと思うのであれば、世のため人のために今すぐその命を捨てるべきだ。サービスとは、あくまで提供するものに見合った対価への善意であることを忘れてはいけない。

話が逸れてしまったが、要するにおっちゃんは世の中の仕組みを、優しくシンプルに教えてくれたのである。

多少の反発は覚えたものの、素直な我々は絆創膏を買うお金をもらいにいかなければと、急ぎ足で薬局を出て水泳教室へと歩いた。Tは時間が過ぎているから急ごうと走っているが、私は傷が痛くて歩くのもやっとといった状態であった。

そんな私を見かねたTは、時間が過ぎているのでもしかしたら私の母親が水泳教室にいるかもしれない、と言った。それはそうだ。予定の時間になっても帰らず、遊ぶと言っていた公園にもいないとなると、探すに決まっている。痛みで思考が鈍くなっていた私でもわかることだった。

Tは、先に行って私の母親を連れてくると言い、私に全ての荷物を持たせて走り出した。

私は彼のプールバッグと彼のゲームボーイを押し付けられ、置き去りにされたのである。

私は途方に暮れた。真っ直ぐに歩けばいいのはわかっていても、2人分の荷物は重い。その上、自分のものではないうえに泳ぐのには全く必要ないゲームボーイまで持たされているのだ。

涙でぼやける視界で、徐々に遠くなっていくTの背中を見つめていた。痛みと、完全に時間に遅れていることに対して怒られるという恐怖が、ますます私の足を引き留めていた。

そうして漸くたどり着いた頃には、私の練習時間はとっくに終了していた。Tはあと数分で終了だった。

先にたどり着いたTは、彼の予測通りに探しに来ていた私の母親と合流し、半泣きで歩く私を保護して、この冒険は終了した。

母の車でTの家に帰った。Tの母親は、心配のしすぎでぐったりとしていた。

私の母親曰く、我々がいなくなった後のTの母親は「この際Tはいい。ひのやま(筆者)に何かあったらどうしよう。どうやって責任を取ろう。十中八九、Tが連れ出したんだよ。ごめんね、どうしよう、どうしたらいいんだろう?」と非常に取り乱していたようだった。半分泣きながら、自分の息子であるTより、友人の娘である私の心配しかしていなかったらしい。

一方で私の母親は「Tがいるから大丈夫だよ」と楽観的な言葉をかけていたらしい。自分より取り乱した人がいると逆に冷静になるそれなのか、本当に大丈夫だと思っていたのかは知らないが、「プールに行ってそうだから、その道を探してみるよ」と探しに出たのだと後になって聞いた。

こう考えてみると、Tの予想と私の母親の予想が合致したのはすごい。子どもというのは予期せぬ行動を取るものであるが、このケースは非常に運が良かったとしかいえぬ。

そんなカオスともいえるバックグラウンドなど露知らず、私を連れ出した張本人であるTは何食わぬ顔で帰った。彼はもう怒られることに対しての覚悟を決めていたのだろう。

そんなTと怪我をした私を見て、とりあえずTの母親は私の手当てをしたあとに、私の母親から事の顛末を聞き、Tを正座させ、烈火のごとく叱った。怪我をした私に彼のゲームボーイを持たせて先に行ったことを叱るときが怒りのピークであった。

「もし、またTが1人で行くとか言い出しても、ついていかなくていいからね」と言われたが、私は多分着いていくのだろうなとぼんやりと考えていた。

放っておいて何かしでかしたら、またTが怒られてしまうと彼の身を案じたのである。

不必要な荷物を押し付けられ、置き去りにされたのにもかかわらず、彼の身を案ずるような優しい心を持った私は一体どこへ行ったのだろうか。今はそれが不思議で仕方がない。