転んだ話
「転ぶ」というドジは、生きていく上で必ず踏んでいく行程だ。
しかし、大抵の場合は自ら死に飛び込んでいく元気な幼少期、或いは年老いて足腰が弱くなった時だろう。
転ぶと当然ながらどこかが「痛い」という感覚をえる。尻餅をつけば尻が痛いし、手首を出せば手首が痛い。
好き好んで自身の体を痛めつける趣味は、よっぽどの変態以外にはないはずなので、転ばないために細心の注意を払うようになる。そうして、人間は成長し、滅多に転ぶことはなくなる。
それは例外なく私にも当てはまることだった。自転車を漕げば転び、走ればどこかしらに傷をこさえ、冬になれば氷で滑って尻餅をつくといった具合で、かなり転ぶ機会が多い女であったが、これでも注意して生きてきた。学習の甲斐があり、転ぶのは冬の数回に抑えられてきたわけである。雪が多く降る地方でなければ、転ばない年もあったことであろう。
凍った道で転ぶことは、もう仕方ないと諦めている。あからさまに凍った道であれば警戒するのが当然であるが、ツルツルなのかそうでないのかわからないトラップが無数に仕掛けられているのだ。
中でも悪質なのが、ツルツルなアイスバーン状態の上に新たに降った雪が積もっている状態のときである。新雪は滑らないため、安心してしっかり踏み込んで歩くが、下がツルツルに凍っていれば宙を舞うのは必然だ。
この問題は靴裏の凸凹で解決できるのだが、その話は置いておくことにする。
当然ながら夏場はアイスバーンのようなトラップは仕掛けられていない。
夏は暑い。これは、目を閉じたら何も見えなくなる、といった類の当たり前の共通認識である。
雪が降ることもないし、道が凍ることもない。
しかし、人は追い詰められていると、何かがこぼれ落ちていく。
私がこぼしたのは「転ぶことに対する警戒心」だ。
私はその日、転んだ時の痛みを思い出していた。
台風が過ぎ去り、快晴が訪れた残暑の話だ。
私はバイト先への道のりを急いでいた。
起きるのが遅くなってしまった私はご飯をかきこみ、適当な服を合わせ、最低限の身支度をして慌てて家を飛び出した。
この電車を逃せば遅刻だ。
焦燥感に駆られた私は、新幹線を彷彿とさせる速度で走っていた。遅刻したら給料が減るのである。なりふり構っていられない。
この日の私は、半袖にワイドパンツを履いていた。いつもと同じような服装だ。しかし、これがいけなかったのだ。
走るときはシンプルな服装が好ましい。派手な装飾は邪魔なのでいらないし、なにより引っ掛かるようなことがあれば危険だ。しかし、遅刻への恐怖はそんな基本的な考えも押し流す。私はひたすら前だけを向いて走っていた。
優雅に歩いていては間に合わないが、全力で走れば行けなくもない時間だった。職場での信頼を積み重ねる近道は、やむを得ない状況ではない限り遅刻や欠勤をしないことだ。根付いた考えは私の鈍足をもウサインボルトへと変貌させた。
よし、この速度でならいける。
私は、勝利を確信した。
これで遅刻はしない。お金も減らない。
が、この油断がいけなかった。次の瞬間、私は地面に横たわっていたからだ。
何が起こったのか全く理解していなかった。真っ白な頭では、身体中が痛いことだけしか認識できないのだ。
私はゆっくりと立ち上がった。両手足に擦り傷ができている。
あ、転んだ。
私はやっと転んだことを理解した。
しかし、一度転んだくらいでは立ち止まっていられぬ。私は稼がなければならない。次の月には推しのイベントが待っているのだ。
ここで稼がねば、いつ稼ぐ?
一般ピーポ〜の皆様にはわからない感覚だと思うが、恥を忍んで暴露すると、私は自転車操業でオタク活動をしている。つまり、給料が入った分だけ使い、貯金をしない。というのがデフォルトだ。余った分は次の月へ回される。
私の労働費は全て推し、あるいはコンテンツの制作に対してのお布施になっていると言っても過言ではないかもしれない。
私が生活をやめれば、推したちはもっと豊かになるのかもしれないが、生活をしないと貢げない。世知辛い世の中である。
私は立ち上がった。全ては推しのためだ。そして、右足から一歩を踏み出した。一歩、二歩、三歩。
よし。走り出そう。
懲りずに走り出した。怪我をしたというのに、良いスタートダッシュだった。まだ大丈夫。間に合う。
しかし気合を入れたのにも関わらず、私は情けないことに三歩走った直後に地面と仲良くしていた。
幸いなのは人通りがなかったことのみである。
かすり傷程度だった膝も肘も両方ズルズルになり、手のひらまで怪我をしていた。体も打ったので動きも鈍った。
私は本気で泣いた。泣きながら駅へ向かった。転んで泣いたのは、小学校低学年の頃に、やっと乗れるようになった自転車で派手に転倒したとき以来だった。しかし、あの頃よりも傷の程度は酷かった。両足、両肘、手のひら、そしてなぜかお腹。擦り傷ができた箇所が、大人になってからの方が多かったからだ。
当時21だった私は、泣きながらバイト先に遅刻の旨を伝えた。手当てをしに戻ろうかとも考えたが、「成人してから転んで泣いた」という羞恥のあまりに、正常な判断能力を失っていた。血まみれのまま電車に乗ったのである。
そして、思ったより早くバイト先に到着した。いたのは店長と契約社員だった。
「遅刻してすみません、おはようございます」と言い出勤のカードを切った私の、なんとボロボロでみすぼらしいことか。
ふたりは一瞬言葉を失っていた。
「え?何?大丈夫?」
かろうじて出た言葉はこんな感じだったと記憶している。あまりにも怪我の程度がひどいうえに私が半泣きなので、大丈夫じゃないことはわかっていても、大丈夫?と声をかけてしまうのは反射的なものだろう。
手当てしな、と救急箱を出してくれた。消毒しながら「ワイドパンツで激走したら2回転んで、派手に擦りむいた。21にもなって情けなくて泣けた」と経緯を語ると、ふたりとも笑い飛ばしてくれた。
この際派手に笑ってもらえなければ、ネタになり損ねた恥を体を張って晒しただけになってしまうのでとてもありがたかった。
この3日後くらいに北海道で大きな台風が上陸し、大きな地震が起きた。打ち身が良くなってきたと思ったら今度は災害で踏んだり蹴ったりであった。
友人やフォロワーにそれとなく心配されたが、何でもない日に派手に転倒し、大きな怪我をこさえ、打ち身の痛さで苦しんでいたが、地震や台風では怪我をしていないと告げると「元気そうでよかった」と笑われた。
地震直後、私は店長に無事であるとの旨とシフトについて尋ねるために電話したのだが、店長は「お、21歳、元気?」と通話開始早々に私の怪我をいじってきた。怪我が治るまでの間、私は店長から延々とこのネタでいじられる羽目になったのである。
私は決意した。二度とワイドパンツで走れメロスのような真似はしないと。
皆さんもオシャレでワイドパンツやサルエルパンツ、ロングスカートなどを履くことがあると思うが、これらは本当に走ることに向いていない。
私はそんなドン・クサ子じゃないわよ!と憤りを覚えても、これらで走るという行為は「社会的恥」の強いやつになりかねない。
成人してから派手に転倒することは、精神的にも身体的にも悲しい影響しかないので、そのような格好で走らなきゃいけない場面はなるべく避けて生きて欲しいと思う。
NICO Touches the Wallsの話
自分の中ではしょうもない話ではないのですが、心の整理をするために載せておきます。
これはNICO Touches the Wallsを応援してた自分を残すための自己満足文章です。まだ心の整理がつかず感情のままに書きなぐったので乱筆ですが、自己満なので知ったこっちゃありません。
さて、2019年11月15日、地元北海道では今年2度目?3度目?の雪が吹き荒れている中、私が人生で一番応援していたであろうバンド、NICO Touches the Walls(以下、ニコ)が終了報告をしました。
心の整理がついていません。
私は多趣味というか、好奇心旺盛で感受性が豊かなので(とってもいい言い方!)、見たものはなんでも面白いと思うチョロいにんげんです。オタクです。
だから好きなものとかは沢山あって、何が一番!っていうのはなく、どれにもいいところが沢山あって素敵だなと思っています。が、ハマるのにも波は結構あって、急にブームが来たり、掘り返してみたり。割と忙しない感じでツイッターライフを送っています。旬ジャンルには乗っかってたり乗っかってなかったりするし、追いかける期間もハマったら長い方、でも疲れたら少し距離を置く、といったかんじでかなりマイペースだというのが個人の見解です。
そんな私が7年間、距離も置かずずっと同じ熱量で追いかけてきたのがニコでした。
ニコを好きになったきっかけはNARUTOのDiverです。
当時中学生でNARUTOが大好きだった私は、Diverを聴いた時に初めて音楽で鳥肌が立ちました。
心地が良くてかっこいい音に乗せて、胸の深いところを突き刺していく、切実な歌詞が書ける人に出会ったのが初めてだったのかもしれません。
「ただの幸せに気づいたらもう二度と 溺れないよ」
この歌詞が強烈に刺さりました。
それからずっと、ほぼ毎日ニコの曲を聴いています。CDやDVDは全部買って聴きました。全部好きでした。
アルバムで買ったら3曲くらいは「これイマイチだな」って思う曲があるんですけど(私個人は)、それがニコだけは全くありませんでした。全部素直に好きでした。
何回も何回も聴いてます。でも、聴きすぎて飽きたとか、嫌になったこともありません。
彼らは、心の底から音楽が好きだっていちばん伝わってくるバンドだと思っていました。事実、いろんなアーティストのいろんな曲からインスピレーションを得て曲に反映させていることが、インタビューとか、ライブのMCとか、音楽から、普段の言葉の節々から、常に音楽にするためのアンテナを張って生きていることがわかります。
彼らほど音楽に貪欲で、技術があって、バリエーションが広いバンドはないなって思います。
毎回毎回新鮮で、研ぎ澄まされていていく。
音楽はなんでも聴くほうです。たぶん。
でも、初対面の人とかと話す時に好きなアーティストは?って聞かれたら「好きなア」の時点で「ニコ!」と反射的に返すくらい好きなのはニコだけです。
たぶんこれからも。
ニコってどんなバンド?って聞かれるのが好きでした。一貫して好きと胸張って言えるのがニコだけでした。もう、アイデンティティのようなものなのでしょう。
だからこそ、今回の終了の報告がいまだによく理解できてないというか。
そのことに気がついたのは9月の終わりでした。
10月に入るまでは、まあ夏までたくさん働いてたしな〜〜と呑気に構えていたのですが、10月半ばになっても更新されない。その頃からじわりと焦り始めました。
なぜなら、11月末に控える毎年恒例のライブの告知すらなかったから。
それでも、ニコのことだから何かものすごいサプライズがあるんだろうなと、10月いっぱいはそんな風に思ってました。ニコはいつも自分にとっては想像の斜め上を行くような企画をするので、今回もそうだと信じて疑っていなかったのです。
しかし、11月になってもなんの音沙汰もない。もうサプライズでゲリラでもやるんか?と思ってました。
それだったらどんなによかったことか、って話ですけど。
「解散」という言葉が頭をよぎらなかったわけではないです。こんなに音沙汰がないのは、私が応援してた間では初めてだったので。
今までは月一くらいでスタッフ、たまにメンバーの誰かが曲作ってるよとか何かしらの報告があったのにそれすらもなかったから、何か良くないことが起こってるんじゃないかって心配してはいました。
でも、どこかでニコは大丈夫だって思ってた。信じていた。
根拠のない自信がありました。どんなメジャーバンドが解散したって、脱退したって、ニコだけは絶対に大丈夫だと思っていました。自分にとってニコは、どんな偉大な音楽を聴いたって、新しい音が出てきたって、最後にはニコが一番だって思えるようなバンドだった。なんていうんでしょうね、故郷みたいなものですかね?
無理しないでゆっくり休んでとか、なんかすげえの作曲してるのかなとか、最後はいい報告が聞けると思って多少ざわついてはいても、いつも通り過ごしていました。
だから「終了」の報告は想定内のような、想定外のような。本当に複雑な気持ちしかないです。 嬉しくはない。悲しいし寂しい。一滴も泣いてないけど。あまりにも実感がなさすぎた。
穴が開いたみたいだ。虚しいが一番しっくりくるような気がする。
でも「解散」ではなくて「終了」が意味することってなんだろうとずっと考えています。
こじつけみたいな考えだけど「解散」って、「集合」することが出来るんですよね。それぞれの道を行った先でまた待ち合わせることができる。
じゃあ、「終了」は?
あの、唐突な書面だけでは全くわからないんです。
これは「NICO Touches the Walls」の「終了」で何か新体制でスタートするプロジェクトがあるのか、この「終了」は「解散」と同意義で、本当にこの先4人で音楽はやることはないという「終了」なのか。
本当にわからない。
ファンに誠実に、真っ直ぐに曲を届けてくれた彼らが、あの書面だけを残して、あっけなく終わったのが本当に信じられないんです。
ファンそれぞれには歴史があることと思いますが、私にとっては7年、インディーズ時代からずっと追いかけてた人がいたら15年。決して短くはない時間を過ごしてきました。
15年、あれだけの才能があって楽曲提供もせず、ニコだけで曲作ってたのにな。やりたいことって、ニコでいるとできないことだったのかな。今更大人の事情とか言われるのかな。15年経って今更?
考えても仕方ないけど、わかんないから考えてしまう。
あんなにあっさり、ありがとうもさようならも言えなかったこと、書面だけで終わったこと。
モヤモヤだけが残っていて、実感が全然わかないんです。
あの書面には色々な含みがあるように見受けられるから余計にわからない。
でも、もしこの先ニコとして一切音楽をやらないなら、やっぱり終了という言葉が適切なのでしょうね。
希望を持たせない、彼らなりの優しさなのかもしれない。
今年の5月に行った札幌の2日間が、私がみた生のNICO Touches the Wallsの最後になるなんて夢にも思ってませんでした。
みっちゃんが「ロックオペラを作りたい」といったことも、「ニコしかない」って言ってたことも、全部幻になってしまう。
信じられるのは、4人とも音楽をやめることはないだろうなということだけですね。特にみっちゃんは、音楽以外で生きていけないと思ってます。個人的に。
まあ、そうあってほしいという願望です。これは私のエゴです。
今は頭が追いついていないだけ。
これから先、嫌でも実感するんだろうな。
例えば、数ヶ月に一回出ていた曲が、もう二度と出ないということ。
例えば、毎年恒例だったイイニコが、もうないということ。
例えば、夏フェスにニコの名前がないということ。
ニコがなくなる世界を想像していた頃の私は、根底で絶対そんなことないと思いつつ、そんなことになったら泣いて取り乱して何も手につかなくなると思ってました。
いざそんなことになってみると全然違うものですね。
ショックを受けても泣いて取り乱すなんてしなかったし、ふつうに起きて、ふつうにご飯を食べて、ふつうに働いて、ふつうにお風呂に入って、ふつうに寝ている。一滴も泣いてない。
いつもみたいに、移動中にニコを聴いて過ごしている。実感がまるでなくて、あの書面は嘘だったんじゃないかって何回も何回も考える。ツイッターのホーム、公式ホームページ、ふるくんのインスタ。これをみて終わったという文字を見る。
それだけ。
きっと、小さなことでニコを思い出して、少しだけ悲しくなって、それが降り積もって「終了」を本当に実感するのでしょうね。
その頃に泣くのか、その頃までには立ち直ってるのかはわからないけれど。(2019年11月16日)
イイニコの日によせて
10日経ちましたが、私はその間にポケモンと冒険を始めました。意外と元気です。多分。「イイニコの日」をこんな気持ちで迎えるとは思っていなかったわけですが。
でも、イイニコの日だ〜〜!楽しいな!って気持ちになることはこの先なくて、「あ、イイニコの日だし、ニコ聴いておくか」と、彼らを懐かしみ、少し寂しくなる日になるんだろうなと思っています。もうすでにさみしいです。
ニコ以上の音楽に出会っても、この日だけはニコのことを思い出す日なのでしょう。
彼らが永遠であるとの証明は、彼らの曲と一緒に、まだ前に進めていない者がゆっくり行っていくのではないかと思います。(2019年11月25日)
最後に、
仮に、もし、もしも、ご本人様方が読むようなことがあったらあれなんでここに記しておきます。
(いや絶対ないけど絶対にないとも言い切れないということを身をもって理解したので)
この際、音楽を辞めても辞めなくても、もうなんでもいいから、壊した壁の先でどうか幸せでいてください。
ずっと好きです。
世界一好きです。
ライブハウスで聴いたみっちゃんの歌声も、客席までやってきてくれたふるくんの指がエグいギターソロも、坂倉さんの縁の下の力持ちみたいなゴリゴリのベースも、対馬さんのコーラスと臓器が震えるくらい力強いドラムも全部大好きで、宝物です。
15年間、お疲れさまでした。何度も救われました。
ありがとう。
幼馴染の話
私には幼馴染がいる。
所謂インキャに分類される自分とは正反対な母親は、非常に色々な人間との関わりがある人間であるため、生まれてから中学に入るまでは幼馴染とべったりで過ごしてきた。今は疎遠になってしまったが。
よく遊んでいたのは年上の男1人、同い年の男が3人、年下の男が2人である。
今回はその中から、年上の男のエピソードについて書いていくことにする。
年上の男(以下、T)は、ひとつ上の好奇心が旺盛で、かなりマイペースな男であった。弟が一人いたが、あまり面倒見が良いかと問われると、そうでもないと答えるくらいにはマイペースな方だと思う。私の前で弟の面倒を見ていた記憶があまりない。
私はTと同じ水泳教室に通っていた。
水泳教室は、家から車で約20分の山の上にあった。主に私の母親が送り迎えをしていたが、たまにTの父親か私の父親が車を出す事もあった。
Tが小学1年、私が幼稚園の年長だった頃、その日は普段通りにTの家に遊びに行き、水泳教室に行く直前までTの家の近くの公園で遊んでいた。
しかし、無邪気な我々は楽しく遊びすぎた。こうなれば「もっと遊びたい」と思うのは必然だ。当然、我々も例外なく「まだ遊びたい」と思ったのである。
しかし、休むことは私の母親もTの母親も許さなかった。私の母親が迎えにくる前に、家を出る前に告げていた公園から移動しようか、などとお互いに言い出すことはなかった。母は強し、とはこういうことを示すのだろう。
私はTにそろそろ帰って支度しよう、と言った。しかし、何を思ったのかTは「俺は歩いていくぞ」と言い出したのである。
成人した今でこそ、遠いし面倒臭いが行けなくはないという認識であるが、当時の私は幼稚園の年長だ。週に2、3度、数年間通っていればバカでも覚えるような簡単な道のりであったが、途方も無いような距離に感じたのだ。それに、子供の足で間に合うような場所でも無い。
(自分で言うのもどうかと思うが)賢かった私は「やめようよ」と説得を試みた。
しかし、Tの決意は固かった。
「俺は一人でも行くぞ」
人がダメだ、無理だと言うと、やってみせようとか、見返そうという、未だに理解できない男性の心理が幼いながらも働いていたのだと思う。こういうところで男女というものはわかりあえないのだろうなとぼんやり思うが、その話は今は置いておくことにする。要するに、私の「やめよう」は、さらに彼に意地を張らせるような言葉だった。
しかし、利発な幼稚園児の私でもこの言葉の魔法には敵わなかったのだ。
「俺は1年生だからいける」
幼稚園と小学校という壁は、一歳差でもかなり高く感じるものだ。
園児にとって小学校とは未知の世界である。
しょうもないことで喧嘩したり、遊び倒したりしている私と、小学校でなんだか難しそうなことを勉強しているTとは雲泥の差がある…と、当時の私は自分の無力さを嘆いた。
同時に「そうか、小学校に行くと一人でプールに行けるのか」と、急にTが逞しくみえたのだった。
しかし、責任感が強い子どもであった私は、一人で行かせては行けないと思い、「わかった、一緒に行く」と付き添っていくという旨を伝えた。夫から脱サラして独立するという意思を告げられた妻が「この人に着いていくと決めたのだから」と覚悟を決める時の気持ちとよく似ている。
こうして10にも満たない子供2人の冒険が始まった。
まず、Tは私の分のプールバッグと、彼の分のプールバッグとゲームボーイを取りに行った。あくまでも目的地は水泳教室であるため、そのための道具を取りに行ったのである。Tは当時ポケモンにハマっていたため、どこに行くにもゲームボーイを持ち出していた。隙があればゲームをしていた。おそらく彼は、頭の中で小学校で習った算数をフル活用した結果、時間より前に着くという結論を出したのだろう。着替えて準備体操をするまでの間にポケモンを育てる予定もしっかりと組み立てていたのだった。多分。知らんけど。
そうして、Tの家から出発した。道程はふた通りあった。私の母親は坂を登りきり、大きな道路に出て一直線で向かっていた。しかし彼の父や私の父は、下道を通ってから坂を登り、大通りに出ていたのである。どちらの道のりでもいけるが、彼は尊敬する父親の意思に従い、下道を通ることに決めた。この冒険の隊長はTであるため、私もそれにならって後ろを歩いていった。
途中の下道には公園があった。Tは「まだ時間があるから遊ぼう」と誘ってきた。私は遊び足りなかったので快諾した。彼の家からこの下道の公園に辿り着くまでの間で全面的に信頼を寄せていた私は、彼が間に合うというのなら時間通りに着くのだろうと考え、ブランコで遊ぶことにした。
思う存分遊んでいたら、想定していたより時間が経っていたようで、Tは「まずい!早く行くぞ!」と公園をでて駆けて行った。私は慌てて彼の後を追った。
一生懸命に坂を登り、大通りに出た。車通りが多く、轢かれるのではないかと足が竦みそうになっていたが、Tがさっさと信号を渡っていくのでためらっている暇はなかった。こんなところで置いていかれたらまずいのだ。
そうして急ぎ足でTのあとを歩いていたが、小さい子どもというものは隙さえあれば命を自ら落としにいく生き物である。頼もしい小学校1年生であるとはいえ、Tも例外ではなかった。
縁石の上を歩き始めたのである。ビビリの私は「これはマズイのでは?」と肝を冷やしつつ、「この上を線を踏まないで歩かないといけないんだ」と言われたので従った。しかし、私の短い足の歩幅と縁石の線が微妙に合わず、線を踏みかけた私はバランスを崩して車道へ転んだ。
幸いにも車道外側線からははみ出なかったため、轢かれてジ・エンドとはならなかったが、膝や肘に擦り傷をこさえてしまった。
痛みと車に轢かれるかもという恐怖から私は泣きたくなったが、我慢した。
Tは私の傷を見て「大変だ。絆創膏が必要だ」と言った。幸いにも、すぐそばに薬局があることを知っていた我々は、絆創膏を貰うために薬局へと足を運んだ。
負傷者1名(私)を連れてTは薬局に入った。レジにいたのは、髪の毛が寂しいおっちゃんだった。Tは私が怪我をしたから絆創膏をくれとおっちゃんに頼んだ。
おっちゃんは「お金はある?」と問いかけてきた。「ない」と答えた。我々が持っているのは、水着とタオルとゲームボーイのみである。
おっちゃんは「お金がないと絆創膏は渡せないんだ、パパかママを呼んできてくれるかな?」と、社会の基本的な仕組みを困り顔で教えてくれた。
泳いだ後の肉まんやアイスは、お金がないと食べることができない。怪我をしたら絆創膏を貼ってもらうということが当たり前であったが、絆創膏にはお金がかかるのだと衝撃を受けた。我々は諦めて外に出た。練習開始時刻はとっくに過ぎていた。
転んだ当時からしばらくは「1枚くらいくれればいいのに」と多少の憤りを感じていたものだが、社会に出て働いてみるとおっちゃんのとった行動は至極真っ当であると思う。何かを得るためには、それなりの対価が求められるのだ。要するに、この世はカネだ。
おっちゃんも助けたいという意思はあったのだ。何度もごめんね、痛いよね、ごめんねと謝ってきた。しかし、小さい子どもの買い物には大抵親がいるものだから、おっちゃんも近くに親がいると思ったのだろう。
しかし我々は冒険の真っ只中であるため、近くに親がいるという状況ではなかった。
人の善意だけで飯が食えるのであれば、誰も苦労しない。人の善意に漬け込んで得をしよう、などという愚かな思考は早急に捨てることをお勧めする。何も出さずに得だけしたいと思うのであれば、世のため人のために今すぐその命を捨てるべきだ。サービスとは、あくまで提供するものに見合った対価への善意であることを忘れてはいけない。
話が逸れてしまったが、要するにおっちゃんは世の中の仕組みを、優しくシンプルに教えてくれたのである。
多少の反発は覚えたものの、素直な我々は絆創膏を買うお金をもらいにいかなければと、急ぎ足で薬局を出て水泳教室へと歩いた。Tは時間が過ぎているから急ごうと走っているが、私は傷が痛くて歩くのもやっとといった状態であった。
そんな私を見かねたTは、時間が過ぎているのでもしかしたら私の母親が水泳教室にいるかもしれない、と言った。それはそうだ。予定の時間になっても帰らず、遊ぶと言っていた公園にもいないとなると、探すに決まっている。痛みで思考が鈍くなっていた私でもわかることだった。
Tは、先に行って私の母親を連れてくると言い、私に全ての荷物を持たせて走り出した。
私は彼のプールバッグと彼のゲームボーイを押し付けられ、置き去りにされたのである。
私は途方に暮れた。真っ直ぐに歩けばいいのはわかっていても、2人分の荷物は重い。その上、自分のものではないうえに泳ぐのには全く必要ないゲームボーイまで持たされているのだ。
涙でぼやける視界で、徐々に遠くなっていくTの背中を見つめていた。痛みと、完全に時間に遅れていることに対して怒られるという恐怖が、ますます私の足を引き留めていた。
そうして漸くたどり着いた頃には、私の練習時間はとっくに終了していた。Tはあと数分で終了だった。
先にたどり着いたTは、彼の予測通りに探しに来ていた私の母親と合流し、半泣きで歩く私を保護して、この冒険は終了した。
母の車でTの家に帰った。Tの母親は、心配のしすぎでぐったりとしていた。
私の母親曰く、我々がいなくなった後のTの母親は「この際Tはいい。ひのやま(筆者)に何かあったらどうしよう。どうやって責任を取ろう。十中八九、Tが連れ出したんだよ。ごめんね、どうしよう、どうしたらいいんだろう?」と非常に取り乱していたようだった。半分泣きながら、自分の息子であるTより、友人の娘である私の心配しかしていなかったらしい。
一方で私の母親は「Tがいるから大丈夫だよ」と楽観的な言葉をかけていたらしい。自分より取り乱した人がいると逆に冷静になるそれなのか、本当に大丈夫だと思っていたのかは知らないが、「プールに行ってそうだから、その道を探してみるよ」と探しに出たのだと後になって聞いた。
こう考えてみると、Tの予想と私の母親の予想が合致したのはすごい。子どもというのは予期せぬ行動を取るものであるが、このケースは非常に運が良かったとしかいえぬ。
そんなカオスともいえるバックグラウンドなど露知らず、私を連れ出した張本人であるTは何食わぬ顔で帰った。彼はもう怒られることに対しての覚悟を決めていたのだろう。
そんなTと怪我をした私を見て、とりあえずTの母親は私の手当てをしたあとに、私の母親から事の顛末を聞き、Tを正座させ、烈火のごとく叱った。怪我をした私に彼のゲームボーイを持たせて先に行ったことを叱るときが怒りのピークであった。
「もし、またTが1人で行くとか言い出しても、ついていかなくていいからね」と言われたが、私は多分着いていくのだろうなとぼんやりと考えていた。
放っておいて何かしでかしたら、またTが怒られてしまうと彼の身を案じたのである。
不必要な荷物を押し付けられ、置き去りにされたのにもかかわらず、彼の身を案ずるような優しい心を持った私は一体どこへ行ったのだろうか。今はそれが不思議で仕方がない。
史上最悪に腹を下した話
通勤電車の中で腹を下したことはあるだろうか。
ブツは一刻を争う状態で生まれようとしているのに、トイレが遠いうえに、満室だった時の絶望を味わったことがあるだろうか。
これまでの人生で幾度となく便意の波を乗り越えて平々凡々と生きてきたが、この日ほど絶望し、社会的尊厳が崩壊する危機を感じた日はなかったので、ここに備忘録として書き残しておくことにした。
大変汚い話であるが、意外と他人事ではないので最後まで読んでも損はない。多分。
これは、究極の便意を乗り越えた女の話である。
腹を下す前日、本題に逸れるので触れないが傷心だった私はバイト先でも特に仲が良い同期をやけ酒に付き合わせていた。6人しか座れないこぢんまりとした餃子屋でちょっと良い日本酒を飲み、おっちゃんが一生懸命焼いてくれた餃子を美味しくいただいて、気持ち良く酔っ払いながらシメパフェを食べた。浴びるほど飲んで嫌な記憶飛ばして…と、酒に逃避することはなかったが、同期との話はよく弾み、楽しく美味しいお酒が飲めたため、気持ち良くほどほどに酔っ払って帰宅した。
で、終わればよかったのだが。
さて、話は変わるが、人前で大便を漏らすということがどういうことか、尋ねずともわかるだろう。
そう、待ち受けているのは「社会的死」だ。
人前で転ぶのとはわけが違う。これは「社会的恥」の項目に該当する。
では、「死」と「恥」は何が違うのか。答えは多様だ。大きく分けると「この先人前で生きていけるか、いけないか」、「後を引くか、引かないか」の2点である。
「この先人前で生きていけるか、いけないか」
人前で大便を漏らすと心に大きな傷を負う、ということは察するに余りあることだろう。その場で本気で死を考える案件だ。
その場にいた人が全員知らない人でも、「大便を漏らした人がいた」という記憶は刻みつけられるし、自分も「人前で大便を漏らしてしまった」というトラウマと一生戦わなければならないのである。もしもその場を知り合いに目撃などされてしまえば最悪だ。
ところで、「最悪」という言葉は「最も悪い」と書くが、まさにこういう状況のことを言うのだと思う。我々はこの言葉をポンポンと簡単に使うが、もっと「最悪」という言葉の意味を考え、慎重に使うべきなのではないか。
自分が大便を漏らした現場を目の当たりにしたのは、この地球上の約70億人のうち100人にも満たない人数だ。しかし、「大便を漏らした」という事実は変わらない。電車に乗っているときは、その小さな箱の中が世界の全てである。
「死ぬときはひとり」と同じで「大便するときはひとり」といえるだろう。この日本では、大便は大抵1人で行うものである。だからこそ、「大便を人前で漏らす」ということは恥なのだ。
次に交通機関を使う時から「漏らした時近くにいた人がいるんじゃないか」、「自分の顔と名前を覚えているのではないか」、「SNSに自分が大便を漏らしたことが拡散されているのではないか」、「またやらかすのではないか」など、様々な終わりのない恐怖に苛まれるのであろう。
これが、365日24時間、この身が朽ち果てるまで続くのである。もしかしたら、このプレッシャーが原因でまたお腹を下すかもしれない。そうなれば悪循環である。こうして人は、表立って生きていく気力をなくしていくのだ。
一方で、人前で転ぶ、ということは一瞬だ。すぐ人混みに紛れてしまえばこちらの勝ちなのだから。もとよりヒトは失敗から学んでいく生き物なので、人前で転んだことなど微々たるものである。すぐに忘れられる。周りの人もそこまで気に留めないだろう。大便と違って、臭いもしない。刹那の恥を耐え忍べば、あとは平々凡々と、転ばないように細心の注意を払って生きていくだけだ。
「後を引くか、引かないか」
人糞というものは大抵臭い。このお目汚し文章を読むことができる人間はそれなりの年数を生きてきたと考えられるため、今まで一度も大便をしたことがないという者はいないであろう。
人糞は臭い。空が青いのと同じくらい常識である。
転んでも、臭いはしない。激しく転んでもせいぜい血の臭いくらいだ。しかし我々はサメではないので、血の臭いを嗅ぎつけて食べようとはしないだろう。我々人間の鼻は思っているより優秀ではない。つまり、転んだときに味わうのは「視覚的恥」だけであり、「嗅覚的恥」はない。
大便を漏らすということは、着替えるまでにかなり後を引く。どんどん臭いが染み付いてしまい、最悪の形態進化を遂げていくことであろう。金魚がフンをつけて泳ぐように、尻に糞をつけて歩かなければいけない。「嗅覚的恥」というものは、身体を清めるまで付きまとってくるのである。
人糞は独特の臭さを漂わせるため、犬でなくとも嗅いで辿れば臭いの大元はわかってしまう。大便の臭いを知らないという人間もそうそういない。どんなに澄ました顔で堂々と歩いても、人糞の臭いは簡単には取れないだろう。
それどころか、大便を漏らしているのに堂々としているだなんて異常ではないかと、ゴキブリでも見るような視線に晒されることは間違いない。
従って、「大便を漏らす」という行為は「社会的死」を意味すると定義してもいいだろう。
それでは、本題に切り込んでいく。
便意の当日、私は早番で出勤であった。
家を出る1時間前に起床した。朝ごはんを食べ終えるまではとくに異常はなかった。水を飲み、キャベツを食べ、白飯をかきこむまでは平凡な日常であった。
異常が発生したのはその5分後だ。腹が痛いのである。
この時点で出勤40分前であった。私は即座に腸を働かせる運動を始めた。腸を揉みながら腰を回したり、手を反対の足のくるぶしに交互にタッチする動きをしたりと、テレビで得たなけなしの知識をフル活用した。
いつもであればその時点で大抵のブツを出し切り、なんとか出勤時間に間に合うのだが、その日は成果が出せなかった。要するに、なにも出さないまま出勤したのである。
腹痛には波がある。「あ、いけるかも」と「無理」の波が交互にやってくる。電車に乗るまでは「耐えられなくもない」といった様子であったため、最寄りから勤務先までの30分程度を耐えればいけるだろうと、舐め腐った態度のまま電車に乗った。
これが間違いであった。乗った瞬間から「無理」の波が押し寄せてきたのである。
次の駅は無人駅であったため、トイレという人類の母の存在は期待できない。必然的に、快速にも乗り換えられる人の出入りが多めな次の駅まで行かなければならないということになる。
快速に乗り換えられる駅に着いた瞬間に乗り換えようと試みた。しかし、各停と快速ではトイレに駆けこめる回数が異なる、座れなかったらしんどいかもしれない、激しく揺れたら困る、などといった理由で思いとどまり、私は快速に乗り換えることをやめた。
私は痛むお腹を抑え、穏やかに揺れる電車の中で気を紛らわすために刀剣乱舞を開き、開催中のイベントノルマをこなした。
だが、自分のお腹であるにもかかわらず、痛みというものは無情であった。
「無理」の波浪注意報が発令されたのである。
今までウンともすんとも言わなかったブツが、今にも爆発しそうになったのだ。刀剣乱舞などやってる暇がないのである。私は立ち上がって、降りるか悩んだ。あと4駅。いけなくはないかもしれない。しかし…………。そう悩んで2駅、ドアが閉まるのを見届けた。
残り2駅。耐えろ、私。
冷たい壁に手を置き、紙のように白い顔で、痛みを堪えていた。しかし、「無理」の波は波浪注意報どころの騒ぎではなかった。津波になったのである。
「あ、いけるかも」の波は、津波と一緒に私の社会的尊厳を脅かす存在となっていた。
手足は震え、脂汗をかき、ありとあらゆる感覚が鈍くなっていくのを感じたのをよく覚えている。
「これ以上ここにいてはいけない」
千と千尋の神隠しでおなじみのハク様の声が聞こえた気がした。限界を感じた私はフラフラと、しかし急ぎながら途中下車した。最寄りまでは5分以上、人の出入りが多い駅であるために待たされる時間も考慮し、今降りるべきであると決断を下したのだ。
私はバイト先のグループラインに体調不良で遅れる旨を伝え、この津波に立ち向かう決意を固めた。
この津波に負けたら、待ち受けるものは「社会的死」のみだ。本能が私に訴えかけてきた。
そして、ようやくトイレにたどり着いた。しかし、トイレが3つしかなかった上に、洋式はひとつしかなかった。洋式便座に座ってうずくまりながら全てを出し切ろうとした私は、気が抜けて津波に飲み込まれそうになった。
まあ、用を足すだけだろうし…………そこまで待たないよね。と、自身が通常時はトイレにそこまで時間をかけない人間なので、2分にも満たない時間ならギリギリいける。落ち着いて待つことにした。
しかし、その日の私は運が悪かった。
洋式トイレに入っていた女が、着替え始めたのである。
もぞもぞとした動作と布がすれる音がドア越しに伝わってきた瞬間に「キエエエエエエ!!!!!?!?!?」と、私は心の中で発狂した。側から見たら、灰くらい白い顔で唖然呆然としながら、手洗い場の手すりのようなものに掴まっている女であったであろう。
一方、私の頭の中ではいろんな人や動物がズンドコホイと踊り狂っていたり、遅刻分の分給っていくら引かれるんだろうと、電卓を叩く音と一緒に貯金箱から金が羽を生やして飛んでいったりする映像が流れていた。
時間にしてみれば数分ほどであったが、私にとっては何時間にも感じられた。出てきたのは若い女であった。従来の地下街育ちの私は鬼も竦むような目で睨み、したうちの一つや二つをして小声で暴言を吐いて喧嘩を売っていたかもしれない。しかし、女に構ってる暇も売る喧嘩もない。優先すべきは便意だ。なりふり構ってられない私は一瞬だけ睨み、トイレへ駆け込んだ。
もしも私が桑田佳祐だったら、この瞬間のエリーは間違いなく便器だった。もう、漏らすことの心配はしなくていいのである。エリーは広い心で全てを受け止めてくれるのだ。
即座にズボンとパンツをずり下げ、エリーに腰かけた。そうして踏ん張ったものの、出るのはウサギの糞のような微々たるものだ。私はお金より便意をとったのに、大便は出ないのである。
私はパニックになった。こんなはずではなかったからだ。全てを受け止める予定だったエリーも、一体どうしたのかと困惑したであろう。私は必死に腸を揉み、手を反対のくるぶしにタッチしつづけ、大便を促した。
努力の甲斐あって、ゴロゴロ、とお腹が呻いた瞬間を私は見逃さなかった。すかさず腹に力を入れた。
ドン!!!
みかんくらいの丸くて大きいウンコが生まれ、それを追いかけるように茶色い液体状のウンコが勢いよく流れていった。
私はこの時、火山が噴火するときってこんな気持ちなんだろうなと思いを馳せながら、液状のウンコを垂れ流していた。頭の中は、真っ白だった。眩しすぎる光が視界を征服したのだ。エリー、マイラブ、ソースウィート…………………。
その後、TSUNAMIを乗り越えた私は、まだ少し痛む腹を撫でつつエリーの元を去った。(エリーには感謝してもしきれない。いつか菓子折りでも持って行くべきかと真剣に悩んでいる。)
この後もさらなる腹痛に襲われるかもしれないと危惧した私は、グーグル先生に電車で大便を耐える方法について尋ねた。
先生は、一度社会的死を遂げた偉大な先人の話や、お腹を下してるときに抑えるツボの話などを聞かせてくれた。
私は検索上位のものだけざっと目を通し、少し遅れて出勤した。
これは腹痛の最中に見るべきものだったと気づいたのはいつのことだっただろう。
その後の約7時間半、多々「ヤバイ?」という状況に陥ったものの、津波警報は発令されず、いつも通り働いてその日は終わった。
帰り際に、一緒に飲んだ同期が出勤してきた。
「腹下した?」「?うん」体調が悪いことは告げたものの、原因は書いていないためになぜ腹を下したのかと尋ねてきたことに疑問を感じていた。しかし、同期は続けて「うちも腹下したんだよね」と言った。
ほろ酔いで、楽しく、おしゃれなお店のカップルの横で人として最低な話しかしていなかった我々に下った天罰は、あまりにも過酷なものであった。
もしこの汚い文章を最後まで読んだ人間がいたら、伝えておきたい。
「電車内で便意が本気でヤバイと感じたら降りる事も大事」
「腹痛を緩和してくれるツボがある(ググってくれ)」
「大便を漏らす危険は他人事ではない」
上記の3点だ。「社会的死」、ついでに「社会的恥」を味わうものが少しでも減るよう微力ながら願い、これを結びとさせていただく。
本格的な冬がやってくる。皆様には寒さで腹を冷やさぬよう、元気に過ごしていただきたい。