史上最悪に腹を下した話

通勤電車の中で腹を下したことはあるだろうか。

ブツは一刻を争う状態で生まれようとしているのに、トイレが遠いうえに、満室だった時の絶望を味わったことがあるだろうか。

これまでの人生で幾度となく便意の波を乗り越えて平々凡々と生きてきたが、この日ほど絶望し、社会的尊厳が崩壊する危機を感じた日はなかったので、ここに備忘録として書き残しておくことにした。

大変汚い話であるが、意外と他人事ではないので最後まで読んでも損はない。多分。

これは、究極の便意を乗り越えた女の話である。

腹を下す前日、本題に逸れるので触れないが傷心だった私はバイト先でも特に仲が良い同期をやけ酒に付き合わせていた。6人しか座れないこぢんまりとした餃子屋でちょっと良い日本酒を飲み、おっちゃんが一生懸命焼いてくれた餃子を美味しくいただいて、気持ち良く酔っ払いながらシメパフェを食べた。浴びるほど飲んで嫌な記憶飛ばして…と、酒に逃避することはなかったが、同期との話はよく弾み、楽しく美味しいお酒が飲めたため、気持ち良くほどほどに酔っ払って帰宅した。

で、終わればよかったのだが。

さて、話は変わるが、人前で大便を漏らすということがどういうことか、尋ねずともわかるだろう。

そう、待ち受けているのは「社会的死」だ。

人前で転ぶのとはわけが違う。これは「社会的恥」の項目に該当する。

では、「死」と「恥」は何が違うのか。答えは多様だ。大きく分けると「この先人前で生きていけるか、いけないか」、「後を引くか、引かないか」の2点である。

「この先人前で生きていけるか、いけないか」

人前で大便を漏らすと心に大きな傷を負う、ということは察するに余りあることだろう。その場で本気で死を考える案件だ。

その場にいた人が全員知らない人でも、「大便を漏らした人がいた」という記憶は刻みつけられるし、自分も「人前で大便を漏らしてしまった」というトラウマと一生戦わなければならないのである。もしもその場を知り合いに目撃などされてしまえば最悪だ。

ところで、「最悪」という言葉は「最も悪い」と書くが、まさにこういう状況のことを言うのだと思う。我々はこの言葉をポンポンと簡単に使うが、もっと「最悪」という言葉の意味を考え、慎重に使うべきなのではないか。

自分が大便を漏らした現場を目の当たりにしたのは、この地球上の約70億人のうち100人にも満たない人数だ。しかし、「大便を漏らした」という事実は変わらない。電車に乗っているときは、その小さな箱の中が世界の全てである。

「死ぬときはひとり」と同じで「大便するときはひとり」といえるだろう。この日本では、大便は大抵1人で行うものである。だからこそ、「大便を人前で漏らす」ということは恥なのだ。

次に交通機関を使う時から「漏らした時近くにいた人がいるんじゃないか」、「自分の顔と名前を覚えているのではないか」、「SNSに自分が大便を漏らしたことが拡散されているのではないか」、「またやらかすのではないか」など、様々な終わりのない恐怖に苛まれるのであろう。

これが、365日24時間、この身が朽ち果てるまで続くのである。もしかしたら、このプレッシャーが原因でまたお腹を下すかもしれない。そうなれば悪循環である。こうして人は、表立って生きていく気力をなくしていくのだ。

一方で、人前で転ぶ、ということは一瞬だ。すぐ人混みに紛れてしまえばこちらの勝ちなのだから。もとよりヒトは失敗から学んでいく生き物なので、人前で転んだことなど微々たるものである。すぐに忘れられる。周りの人もそこまで気に留めないだろう。大便と違って、臭いもしない。刹那の恥を耐え忍べば、あとは平々凡々と、転ばないように細心の注意を払って生きていくだけだ。

「後を引くか、引かないか」

人糞というものは大抵臭い。このお目汚し文章を読むことができる人間はそれなりの年数を生きてきたと考えられるため、今まで一度も大便をしたことがないという者はいないであろう。

人糞は臭い。空が青いのと同じくらい常識である。

転んでも、臭いはしない。激しく転んでもせいぜい血の臭いくらいだ。しかし我々はサメではないので、血の臭いを嗅ぎつけて食べようとはしないだろう。我々人間の鼻は思っているより優秀ではない。つまり、転んだときに味わうのは「視覚的恥」だけであり、「嗅覚的恥」はない。

大便を漏らすということは、着替えるまでにかなり後を引く。どんどん臭いが染み付いてしまい、最悪の形態進化を遂げていくことであろう。金魚がフンをつけて泳ぐように、尻に糞をつけて歩かなければいけない。「嗅覚的恥」というものは、身体を清めるまで付きまとってくるのである。

人糞は独特の臭さを漂わせるため、犬でなくとも嗅いで辿れば臭いの大元はわかってしまう。大便の臭いを知らないという人間もそうそういない。どんなに澄ました顔で堂々と歩いても、人糞の臭いは簡単には取れないだろう。

それどころか、大便を漏らしているのに堂々としているだなんて異常ではないかと、ゴキブリでも見るような視線に晒されることは間違いない。

従って、「大便を漏らす」という行為は「社会的死」を意味すると定義してもいいだろう。

それでは、本題に切り込んでいく。

便意の当日、私は早番で出勤であった。

家を出る1時間前に起床した。朝ごはんを食べ終えるまではとくに異常はなかった。水を飲み、キャベツを食べ、白飯をかきこむまでは平凡な日常であった。

異常が発生したのはその5分後だ。腹が痛いのである。

この時点で出勤40分前であった。私は即座に腸を働かせる運動を始めた。腸を揉みながら腰を回したり、手を反対の足のくるぶしに交互にタッチする動きをしたりと、テレビで得たなけなしの知識をフル活用した。

いつもであればその時点で大抵のブツを出し切り、なんとか出勤時間に間に合うのだが、その日は成果が出せなかった。要するに、なにも出さないまま出勤したのである。

腹痛には波がある。「あ、いけるかも」と「無理」の波が交互にやってくる。電車に乗るまでは「耐えられなくもない」といった様子であったため、最寄りから勤務先までの30分程度を耐えればいけるだろうと、舐め腐った態度のまま電車に乗った。

これが間違いであった。乗った瞬間から「無理」の波が押し寄せてきたのである。

次の駅は無人駅であったため、トイレという人類の母の存在は期待できない。必然的に、快速にも乗り換えられる人の出入りが多めな次の駅まで行かなければならないということになる。

快速に乗り換えられる駅に着いた瞬間に乗り換えようと試みた。しかし、各停と快速ではトイレに駆けこめる回数が異なる、座れなかったらしんどいかもしれない、激しく揺れたら困る、などといった理由で思いとどまり、私は快速に乗り換えることをやめた。

私は痛むお腹を抑え、穏やかに揺れる電車の中で気を紛らわすために刀剣乱舞を開き、開催中のイベントノルマをこなした。

だが、自分のお腹であるにもかかわらず、痛みというものは無情であった。

「無理」の波浪注意報が発令されたのである。

今までウンともすんとも言わなかったブツが、今にも爆発しそうになったのだ。刀剣乱舞などやってる暇がないのである。私は立ち上がって、降りるか悩んだ。あと4駅。いけなくはないかもしれない。しかし…………。そう悩んで2駅、ドアが閉まるのを見届けた。

残り2駅。耐えろ、私。

冷たい壁に手を置き、紙のように白い顔で、痛みを堪えていた。しかし、「無理」の波は波浪注意報どころの騒ぎではなかった。津波になったのである。

「あ、いけるかも」の波は、津波と一緒に私の社会的尊厳を脅かす存在となっていた。

手足は震え、脂汗をかき、ありとあらゆる感覚が鈍くなっていくのを感じたのをよく覚えている。

「これ以上ここにいてはいけない」

千と千尋の神隠しでおなじみのハク様の声が聞こえた気がした。限界を感じた私はフラフラと、しかし急ぎながら途中下車した。最寄りまでは5分以上、人の出入りが多い駅であるために待たされる時間も考慮し、今降りるべきであると決断を下したのだ。

私はバイト先のグループラインに体調不良で遅れる旨を伝え、この津波に立ち向かう決意を固めた。

この津波に負けたら、待ち受けるものは「社会的死」のみだ。本能が私に訴えかけてきた。

そして、ようやくトイレにたどり着いた。しかし、トイレが3つしかなかった上に、洋式はひとつしかなかった。洋式便座に座ってうずくまりながら全てを出し切ろうとした私は、気が抜けて津波に飲み込まれそうになった。

まあ、用を足すだけだろうし…………そこまで待たないよね。と、自身が通常時はトイレにそこまで時間をかけない人間なので、2分にも満たない時間ならギリギリいける。落ち着いて待つことにした。

しかし、その日の私は運が悪かった。

洋式トイレに入っていた女が、着替え始めたのである。

もぞもぞとした動作と布がすれる音がドア越しに伝わってきた瞬間に「キエエエエエエ!!!!!?!?!?」と、私は心の中で発狂した。側から見たら、灰くらい白い顔で唖然呆然としながら、手洗い場の手すりのようなものに掴まっている女であったであろう。

一方、私の頭の中ではいろんな人や動物がズンドコホイと踊り狂っていたり、遅刻分の分給っていくら引かれるんだろうと、電卓を叩く音と一緒に貯金箱から金が羽を生やして飛んでいったりする映像が流れていた。

時間にしてみれば数分ほどであったが、私にとっては何時間にも感じられた。出てきたのは若い女であった。従来の地下街育ちの私は鬼も竦むような目で睨み、したうちの一つや二つをして小声で暴言を吐いて喧嘩を売っていたかもしれない。しかし、女に構ってる暇も売る喧嘩もない。優先すべきは便意だ。なりふり構ってられない私は一瞬だけ睨み、トイレへ駆け込んだ。

もしも私が桑田佳祐だったら、この瞬間のエリーは間違いなく便器だった。もう、漏らすことの心配はしなくていいのである。エリーは広い心で全てを受け止めてくれるのだ。

即座にズボンとパンツをずり下げ、エリーに腰かけた。そうして踏ん張ったものの、出るのはウサギの糞のような微々たるものだ。私はお金より便意をとったのに、大便は出ないのである。

私はパニックになった。こんなはずではなかったからだ。全てを受け止める予定だったエリーも、一体どうしたのかと困惑したであろう。私は必死に腸を揉み、手を反対のくるぶしにタッチしつづけ、大便を促した。

努力の甲斐あって、ゴロゴロ、とお腹が呻いた瞬間を私は見逃さなかった。すかさず腹に力を入れた。

ドン!!!

みかんくらいの丸くて大きいウンコが生まれ、それを追いかけるように茶色い液体状のウンコが勢いよく流れていった。

私はこの時、火山が噴火するときってこんな気持ちなんだろうなと思いを馳せながら、液状のウンコを垂れ流していた。頭の中は、真っ白だった。眩しすぎる光が視界を征服したのだ。エリー、マイラブ、ソースウィート…………………。

その後、TSUNAMIを乗り越えた私は、まだ少し痛む腹を撫でつつエリーの元を去った。(エリーには感謝してもしきれない。いつか菓子折りでも持って行くべきかと真剣に悩んでいる。)

この後もさらなる腹痛に襲われるかもしれないと危惧した私は、グーグル先生に電車で大便を耐える方法について尋ねた。

先生は、一度社会的死を遂げた偉大な先人の話や、お腹を下してるときに抑えるツボの話などを聞かせてくれた。

私は検索上位のものだけざっと目を通し、少し遅れて出勤した。

これは腹痛の最中に見るべきものだったと気づいたのはいつのことだっただろう。

その後の約7時間半、多々「ヤバイ?」という状況に陥ったものの、津波警報は発令されず、いつも通り働いてその日は終わった。

帰り際に、一緒に飲んだ同期が出勤してきた。

「腹下した?」「?うん」体調が悪いことは告げたものの、原因は書いていないためになぜ腹を下したのかと尋ねてきたことに疑問を感じていた。しかし、同期は続けて「うちも腹下したんだよね」と言った。

ほろ酔いで、楽しく、おしゃれなお店のカップルの横で人として最低な話しかしていなかった我々に下った天罰は、あまりにも過酷なものであった。

もしこの汚い文章を最後まで読んだ人間がいたら、伝えておきたい。

「電車内で便意が本気でヤバイと感じたら降りる事も大事」

「腹痛を緩和してくれるツボがある(ググってくれ)」

「大便を漏らす危険は他人事ではない」

上記の3点だ。「社会的死」、ついでに「社会的恥」を味わうものが少しでも減るよう微力ながら願い、これを結びとさせていただく。

本格的な冬がやってくる。皆様には寒さで腹を冷やさぬよう、元気に過ごしていただきたい。